一なるものの法則 第一巻 ラー文書 - #1-4-12 カーラ12

◆ラーのコンタクト
更新日:2018/10/08
lawofone.info?s=Intro#book-i-introduction

主要な著者の一人ジム・マッカーティの参画とラーの接触です。
  • 文書の本文でない私個人の感想・解釈・注釈等は『(※』『※)』で囲っています。
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  • 翻訳された書籍が売られていますので、私の翻訳じゃあ役に立たん!という方は購入してみて下さいね。

The Law Of One: Book I
THE RA MATERIAL
(Copyright © L/L Research)
Link to reference
p.46 - 49
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アメリカに戻り、私はもはや文字を打つ仕事もできなくなっていましたけれども、私はまだ、継続的な週間瞑想を提供することと個人的な作業のために優秀な生徒を引き受けることはできました。1978年、ジェームズ・アレン・マッカーティは最初、私達の日曜夜の会合で瞑想しケンタッキー州のマリオン郡で「光の中心地」と自然保護区を形作り続けていた人々の一人から、次にドンと私がケンタッキー州のレキシントンでやっていた二時間の聴取者参加型ラジオ番組から、私達の団体について聞きました。彼は私達の瞑想を体験するためにマリオン郡の瞑想グループから多くの人々と一緒にやって来ました。2回の瞑想後にグループ全体としてやって来るのは終わりましたが、ジム(※=ジェームズの愛称※)は1980年の春を最初に、ほぼ毎週140マイルの往復旅行をしました。ジムは、何年もの間、人類を救済する幾つかの方法を探索していました。1947年に生まれ、仕事と教育で学位を身につけ、彼はさらに、意識拡張を教える新しい方法を学びました。この期間のいくらかはスラム街の子供達と一緒に働くことに費やされましたが、彼は自分が探索しているもののより明確な着想を発見することにとても強い望みがあることに気付き始めました。

1972年に彼は、コロラド州ロッキー山脈の10,000フィートに位置する丸太小屋に住んでいるぶっきらぼうな山の老人に「脳の自制」と呼ばれる意識拡張を学ぶ課程を契約しました。この課程で彼は、まず最初に、ラジオや電信や電気的な小道具といったいかなる人工の手段を通してでなく、人間の脳の前頭葉の使用を通して、外宇宙からの進歩的な文明との通信の可能性について学びました。

原野の田舎、岩、松、セイヨウネズの中にいた、このとても中核的な経験以来、彼はこれら脳の自制経験を他者へ提供することができる、同じぐらい辺鄙な土地の一部を探すことを決めました。連絡道路に小川が流れている、ケンタッキー州中部の132エーカーの土地に、彼はロック・クリーク調査開発研究所を作り、彼の想い:人類の進化に近づくための主題の研究を始めました。彼はこの題目の研究集会をいくつか設けましたが、この地域では少しの興味しか引けず、そのため次の6年半は自身の食べ物を作り、瞑想し、学びながらの、自作農と荒野の生活に戻りました。彼は進歩的な知性ある存在との明確で、2方向の交信をやってみたいという好奇心はまだあり、そういうわけで、彼はルイビルのグループとの瞑想をとても楽しみましたが、彼はまた以前にオレゴン州のグループで行われている研究に興味がありました。1980年の秋、彼は、エドガー・ケイシーが深いトランス状態でチャネリングをしていたのと同じソースとチャネリングをしていると思われるこのグループと研究するために、ケンタッキー州からオレゴン州へ旅立ちました。

しかしながら、彼が日曜夜の会合からと私と一緒に受けた進歩的な勉強から受け取った学びは彼の内なる探索を表していて、見たところそれら自身は調和しており、彼の精神はオレゴン州のたった二ヶ月後で成長していました。彼はルイビルに戻ってドンと私と一緒に研究する必要があると分かりました。1980年12月23日、彼はケンタッキー州中部の森からオレゴン州にかけてとルイビルへと戻る5,000マイルの旅をし、ルイビルに到着しました。

ドンと私はマッカーティの助けに果てしなく感謝しました。彼の能力は並外れていました。彼は大学時代の頃から形而上学的な資料の理解力を持っていて、その年の全ての間にわたって広範囲に本を読んでいたので、私達の勉学の領域にとても知識がある状態でこの研究にやって来ました。彼は、書類整理、文書の作成、録音テープからの文字起こし、傷んで廃棄された書状の運搬といった、私ができなくなってからの調査の物理的な部分に従事することができました。ジムは、完全に永久的に、彼の土地を売りました。L/Lリサーチは、私達の出版部門のために私達の古い共同名を維持して、ロック・クリーク調査開発研究所と併合し、新しいタイプライター―ジムの指は、6年半に及ぶ農作業によって強くなって、私の古い電気タイプライターに合いませんでした―を購入し、私達は腰を落ち着かせました…何をするため?私達には分かりませんでした。

私達は新しい本を出すこと、Secrets of the UFO(※今まで何回か出てきましたが、ドンとカーラが出したUFO本です。L/Lリサーチのサイトに行けばダウンロードできます(´ω`※)で学んだことを更新することを議論し、白紙を埋める準備を始めました。ジムは私達の大量の書類で調査し直し始めました。彼が来てから三週間後、ラーのコンタクトが始まりました。

私がチャネリングをしていた全ての年月の間、私は、精神感応的な考えを自身の言語で表現するという私の自由意思を用いて、いつも意識してチャネリングをしていました。1980年、長い付き合いの友達で瞑想グループのメンバー、エレイン・フラーティは悲劇的にも若くして亡くなりました。彼女は若年型糖尿病を患っていて30歳で死にました。彼女が最終的に体から離れて行ってしまう前、私は病院での多くの日々、彼女を看病しました。そして彼女は、自分がもうすぐ死んでしまうことを分かっていたため、彼女の夫、トムに死んだ後も大丈夫なことを気付かせられるかを確かめたいと何回も私に話していました。彼女はまた、トムも長時間瞑想のメンバーであるということも話していました。

彼女の葬儀後、トムは私の所へやって来て、エレインに連絡を試みたいと尋ねました。全ての幾多の交霊会を通して、ある人が物理的に死んだその人の親類から得てみようというようなタイプの交信の個人的な委託はそれ程扱っていなく、私は最初そのような「口寄せ」を試みることに乗り気がありませんでした。しかしながら、彼らは私の良い友達で、いいえとは言えませんでした。トム、ドン、エレインとトムの息子、マイクは最初の試みに私の所に集まりました。エレインとのコンタクトを自身に提示することを意識的に集中した少しの間の後、私は時の経過に気付かず、私が起きた時にはトムは私を通して話されたテープに録音されたエレインの声のように聞こえるものを得ていました。それは私の初めてのトランス状態の経験でした。私は知りません、今日まで、どのようなことが起こったのかを知りません。トムは、もし私がこれをやって、再びとても深いトランス状態であるかのような処に行けば、何も覚えてなく、セッションの後にテープに録音されたエレインの声のように聞こえるものをセッション後に聞くことになるのだろうか、ともう一度尋ねました。ドンは、もし隣の部屋から私を見ずに私(※の声を※)を聞けば、それはエレインだと確信するだろう、と述べました。

この作業は非常に私を消耗させるので、私はトムに、このようなタイプの媒体を続けることを私は本当に望まないという事実を受け入れてくれるよう尋ねました。トムは、エレインが約束したことと満足されたことを得たと言って、同意してくれました。しかしながらほんの数日後、優秀な瞑想の生徒、レオナルド・セシルと一緒に作業をしている間、私は今まで受けたことのない、新たなコンタクトを受けました。私が(※チャネリングをおこなう※)全ての場合においてやっていることですが、キリスト意識の伝達者として来ていないのなら去るようにと、キリストの名のもとにこの存在に要求しました。それは残ったままでしたので、私はそれのチャネルに対して自身を開きました。再び私はほとんど即時にトランス状態に入り、自身をラーと呼ぶその存在は私達との連続のコンタクトを開始しました。このコンタクトは進行中で、魅力的で、私にとって、冷静にいられない源です。

音声のチャネル(※=チャネリングする媒体こと。原文ままchannelです。ちょっと前の文の「チャネルを開いた」のチャネル(周波数帯、チャンネル)とは若干違います。今までも器具、機器、楽器という表現がありましたが、似たようなもので、~する人とは言っていません。なんか、ハトン辺りのページで同じような使い方がありましたが、どこか忘れました。まぁ、文脈でわかるでしょうw※)になろうと決めた人はまず最初の場、幾らかの人々にとっては全く難しいことですが、自身によって制御されない者の言葉を話すことに快くいるという1つの段階に既に到達しています。自由意思で行うチャネリングでは、チャネリングを止めるのを選ぶことが可能です。しかしながら、全くナンセンスを言うのも可能で、なぜならチャネルは、次の概念となるであろう進歩的なことは決して知らないからです。私は、私の経験上決して起こったことがないこと、チャネリングはいつも程良い量の感覚で作られ、多くの場合において、全くの霊観的であるという、このナンセンスを加えるのを促進しました。しゃべる言葉に配慮するよう教えられた社会では、心に思ったことを簡単にうっかり口にすることは無責任な行動と思われているにもかかわらず。

コンタクトを起こすための順序で、トランス状態に入る時、不安感が私の一部で狼狽に近い何かを成長させます。私はトランス状態の手続きがどのようにして作用しているのかは分からず、私はいつもこのセッション中に何も起こらない;意識が残ったまま;何もコンタクトを受け取らない、かもしれないことを心配しています。これ(※=不安※)は決して二度と起こりませんでした。私や私達のグループの他の人たちのどちらも「トランス」の状態に到達する確かな点へ向かって私を手伝う方法の現実的な着想を持っていませんので、何もすることはありませんでしたが、前へ進むためのものはありました。ドンは述べています、私のトランスの状態は彼が観察している他の人と同じだけれども、それは彼が「トランス状態の精神感応的な反応」と呼ぶであろうものです、と。

私は大学生の日々に文学を勉強し、長年の間図書館員でしたけれども、資料(※=ラー文書のこと※)を読むことはほとんど常に、一つや二つの新しい言葉を学ぶ機会と、私の教育では酷く欠いている科学の領域に対する私の意識を確かに伸ばす機会を、私に提供してくれます。

おそらく他のどれよりも私に関係していることは、ラーは確かに持っているが私は全く持っていない知識を、この私(※=カーラのこと※)という人間は多少は持っているのかと、この資料を読む幾らかの人が考慮するであろうことです。もしこの作業があなたに印象を与えたなら、どうか「媒体」という言葉とそれを通して連想される言葉にはっきりと区別をしてくれますようあなたに尋ねることだけができます。例えば、あなたは水道管に対して、それを通り抜ける水の質に関して責任がある、とは期待しないでしょう。私達はこれらのセッションのためにできる限りの最良な準備をするための、瞑想と日常の生活を通して、確かに調査グループの私達は試しにやってみました。私達のグループを通してやって来たものは独立していて、私達メンバーのどの知識やいわゆる精神的進歩に影響を及ぼすことを言い返さないけれども。 私達の好きな人生哲学は「全員同じバスに乗るまぬけ」です。

もし読んでみて質問がありましたら、ロック・クリーク団体にお好きなように手紙を書いて下さい。投書担当、ジムは決して手紙を無視しないでしょう、そして彼がセッションに関する自身の経験を分け合い、この前書きの最後とします。


「RA MATERIAL」を前例にならってラー文書と訳していますが、本文ではラー文書のことを言うのに単に「material」と書かれている場合があり、文脈により理解する必要があります。ですが、さすがに「文書」と訳すのはなんか気が引け、「素材」やら「資材」とかだとラー文書のことを言っているのかが分かりにくい。というわけで、数ある日本語訳の内の一つで「資料」と訳しています。

あと、この序説(前書き)の翻訳の途中でも書いてますが、なるべく直訳で、文の順序をそのままで訳するようにしていたのが結局意訳になってきました。最初の方の翻訳は時々手直ししてますが、やっぱり読み難いですかねぇ…(´ω`;)

あとトランスとかセッションとかこの分野に慣れ親しんでいる人にはすぐ分かるようなカタカナ語も最初は日本語に訳してましたが…
前書きも終わりに近づいてきて、今さら言うのもなんですね。